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東方SS「Kiss and tell」

2008年11月20日 15:16

アリスと神綺の過去話です。
捏造乙。長文注意。

※作者は旧作未プレイです。
  よって、神綺やアリス(幼)の扱いに原作との差異があることをご了承ください。


以下、東方SS「Kiss and tell」

                    「Kiss and tell」

本文:岳る


プロローグ

闇夜に声がこだまする。
それは怒声であり、嬌声であり、悲鳴であった。少なくとも、正気を備えたものは皆無であった。
その、あらゆる負の感情を押し込め、混ぜ込んだような声に合わせて、松明の炎がチロチロと揺らめく。
女は遥か後方で微かに揺れる火灯りをしきりに気にしながらも、抱いている赤子を明かりから隠すように抱きしめ、身を屈め、一寸先も見通せぬ闇の中を駆けていた。自分がどこを走っているのかさえ分からなかったが、とにかく少しでも遠くへ逃げなければならなかった。
追いつかれるわけにはいかない。それは死を意味するのだから。
「魔女め」「魔女め」「どこに行った」
怨嗟の声が聞こえる。
「魔女め」「魔女め」「火にかけろ」
憎悪に満ちた声が聞こえる。
それらを振り払い、女は逃げた。行くあてなどない。しかし、逃げるより外に術はなかった。
「なんで、こんなことに…」
女は嗚咽とともに、それだけ呟くのが精一杯だった。

それは疫病や飢饉といった、目に見えぬ災厄を「悪魔」と表した時代。
同様に、理解の外にある奇跡もまた、悪魔の業と見なされた頃。
修めた魔術を役立てるために、小さな村で魔術を医療に転用して使用していた女は、異端審問官の目に留まり、魔女の烙印を押された。
魔女狩り――国全土に広がる災厄のすべての元凶は悪魔であるとし、悪魔の力を借りていると思われた魔術の徒を、神の名の下に断罪する、裁判という名の死刑。
貧困と病に蝕まれた国が求めたスケープゴート。その犠牲者が魔女――人智及ばぬ超常の事象を修めた者たちであった。
人が精神の安定を得るためには、形ある憎しみの対象を作るのが一番効率がよかったのである。たまたまその槍先に上げられたのが魔女だったことから、「魔女狩り」と呼ばれる悲劇が巻き起こったのだった。
魔術といっても、必ずしも悪魔の力を借りているわけではない。
むしろ、そういう外法は魔術としても避けられる領域であり、大半は自然に宿る精霊の力を借りる精霊魔術なのである。
しかし、魔術を知らない者にとって、両者にどれほどの差があるだろうか。
未知の恐怖に震える者たちにとって、善悪の区別は関係なかった。ただ、理解できるかできないかが重要だったのである。

魔女のレッテルを貼られた女もまた、それまで医者として診てきた村人たちから追われる立場となった。
魔女を庇った者は、その者もまた悪魔に与する者と断定され、審問にかけられるのだ。村人たちに抗う術はなく、恐怖と怒りと悔恨の叫びを上げながら、女を追い立てた。
女を庇った夫は、見せしめとして殺された。
女は嘆く猶予も与えられぬまま、まだ幼い娘を抱いて逃げた。
逃げる場所など何処にもないことを知りながら。
底知れぬ絶望を抱きながら。
幼子とはいえ、子供一人抱えたまま走り続けていたのである。ついに足から力が抜け落ち、女はその場に倒れ込んだ。もう歩くことさえできない。
しかし、後ろからは死を招く鬼火のように揺らめく灯火が、徐々に近付いてくる。
「神よ! いや、神でも悪魔でも構わない! せめて…せめてこの子に慈悲を! 救いを! どうか…どうか…!」
天に娘を差し出しながら、咽喉が裂けんばかりに女は祈った。女にはもう、そうすることしかできなかったのだった。
背後でガサリと音がした。それは生の終わりを意味していた。
幾つもの明かりが親子を取り囲んだ。周囲はそれまでの暗闇から一転、松明の明かりで眩いばかりの光に満ちたが、女の目には絶望の闇にしか映らなかった。
「どうか、どうか、救い給え!」
女は祈った。ただ、ひたすらに。それは周囲を取り囲む村人たちへ向けたものではなかった。それが無駄なことは女自身がよく理解していた。
それでも祈る他に、女にできることはなかった。奇跡以外にすがれるものなど、最早残されていなかったのだから。
祈りの声は虚しく闇夜の空に消え、村人たちの手が、女と娘に伸ばされた。

その時。

世界に、亀裂が走った。

女の周囲を取り囲むように、次々と空間に線が引かれていく。それは大地に、空に、そして人に――有形無形の区別なく広がり、そして――裂けた。
亀裂と重なっていた者たちは、上下に、前後に、左右に己が身を分断されて、叫び声を上げる暇もなく絶命した。辺り一面は一瞬で紅に染まり、むせ返るような血臭が満ちた。
唐突に巻き起こった異常現象を前にしても、女は微動だにしなかった。否、動くことができなかった。
まばたきすらできぬ女の、目の前の空間が、パックリと横裂きに割れた。そのスキマから生白くほっそりとした腕が生えてきた。その腕は女を招くように「おいでおいで」と手招きしていた。
異常な事態であることを理解する正気は、女には残されていなかった。
ただ、差し伸べられた手を掴み、そして――女と娘は世界から消えた。


1章  マーガトロイド

「マーガトロイドさん!」
自分を呼ぶ声に、女は振り向いた。
青々と広がる田んぼの間を通る農道を、一人の精悍そうな男が手を振りながら駆け寄ってくるのが見えた。
「ああ、菊さん。どうしました?」
「いや、この前あんたに診てもらったら、ホレこの通り!」
ペシッと自分の足を叩き、菊さんと呼ばれた男は笑顔を浮かべた。
「すっかりよくなっちまった。畑仕事もできるようになった礼に、さっき採れた野菜を持ってこうと思ってさ」
菊さんは背負っていた籠をホレと見せると、中に詰まった野菜を次々と女の目の前に積んでいく。
「アリスちゃんも育ち盛りだろ? たくさん食わせてやるといい」
「あの、気持ちはありがたいのですが、持って帰るには少々…」
「んあ? あー、こりゃ気付かんで悪かった。じゃあこのまま届けに行くとするか」
菊さんは照れた様子で頭をかくと、山盛りになった野菜を籠に戻した。そして改めて籠を背負い直し、慣れた足どりで歩き出した。
女――マーガトロイドはクスリと笑みを浮かべながら、菊さんの後を追いかけるように家路についた。

マーガトロイド親子がこの地に来てから5年の月日が経っていた。
5年前、親子は里の外れで倒れているところを発見されて、保護されたのだ。
外傷はほとんどなかったものの、精神的な疲弊が激しく、一時期は人が近付くだけで暴れだすほどの恐慌状態でもあった。
しかし、懸命で真摯な住民たちの看病により、今では日常生活を支障なく送れるほどに回復していた。
行く当てのない親子に、里の住民たちは、里の中にあった空き家を住居として提供してくれた。そうして親子は里で暮らすようになった。
里のある地は幻想郷と呼ばれていた。
幻想郷はどうやら遥か東方の地にあるようで、生活様式がまるで違っていた。
しかし、人が良い住民たちは、ことあるごとに世話を焼きたがり、かまどの使い方や風呂の焚き方、東方独自の料理など、あらゆる雑事を丁寧に教えてくれた。
不思議なことに、明らかに異国の地であるというのに、彼らの言語は寸分違わず理解できたし、こちらの言葉も通用するようだった。
マーガトロイドは己と娘を助けてくれた神の奇跡に感謝し、受けた恩を返すため、再び診療所を開いた。
幸いと言っていいのだろうか、この地では不可思議な力を必要以上に恐れる者は皆無であった。
なぜなら、人外の力を操る存在が、ここには多数潜んでいたからである。
――妖怪。
妖の力を操る怪なる者たち。中には人を食らうものもあるという。
そういったものを撃退するため、異能を振るう退魔師や巫女の存在はむしろ有難いものであり、力を持つ人間はそれだけで重宝されたのだった。
ゆえに、マーガトロイドが魔術で傷や病気を治しても、不審がるものは誰も居らず、むしろ医者の少ないこの地においては、感謝されるばかりであった。

マーガトロイドの家は、里の少し外れにあった。
貴重な医者でもあるマーガトロイドは、一度、里の中央付近に居を構えたこともあったのだが、あまりに人が殺到した(中には特に意味も無く訪ねる者も少なくなかった)ために、最初に譲り受けた空き家に戻ったのである。
今では自ら往診に周るようにしている。そして、大抵は途中で声をかけられ、採れたての野菜や果物、狩りの獲物をさばいたものなどを渡されるのだ。それは人々の感謝の表れだった。
――ここは本当に楽園のようだわ。
マーガトロイドは思った。
活気ある町並み。そこに住まう気持ちのよい人々。互いに支えあい、助け合い、尊重しあって生きている。己の義務を果たしているだけであるはずなのに、それが良い循環となり巡っている。
絶望の淵に立たされた後の救い。
奇跡としか言い様のない安穏とした生活。
しかし、時折不安になる。
あの時伸ばされた手は何だったのだろうか?
もし悪魔の誘いであったなら、私がここに居ることで、里の人たちに災いをもたらしてしまうのではないか?
幸せを感じるほどに、不安はいや増すばかりだった。
「あら、今帰り? 丁度よい時間に来たようね」
凛とした女の声に、はっと我に返る。いつの間にやら、家に着いていたらしい。
玄関前には、紅白にキッチリと分けられた清楚な巫女装束の女が立っていた。傍らには巫女の娘だろうか、どこか面差しの似た少女が、巫女装束の女の後ろから、こちらをモジモジと伺っている。
「これは博麗の巫女様。ご機嫌麗しゅう」
「くすぐったい挨拶はいらないわよ、菊さん。今日はマーガトロイドさんに用があったから寄らせてもらったの。お借りしてもいいかしら?」
「自分は野菜を運んできただけですんで、すぐに帰りまさぁ。じゃあ、マーガトロイドさん、納屋に置いとくんで、早めに食べてやってくだせぇ」
「ありがとう、菊さん。ありがたく頂きますわ」
ニッコリと笑顔を向けると、菊さんは顔を真っ赤にして慌てて帰っていった。その様子を可笑しそうに見ている巫女の方に顔を向けると、マーガトロイドは巫女を家の中へと招き入れた。

博麗の巫女とは面識があった。
マーガトロイド親子が幻想郷に辿り着いた時、最初に見つけてくれたのが彼女である。
巫女は里の人々に事情を説明し、親子を里の一員として受け入れる手伝いをしてくれた恩人でもあった。
博麗の巫女は代々類まれなる霊力を持つ一族であり、妖怪の調伏を生業としているという。
彼女のおかげで里の人間は安心して生活できるのだと、そう教えられた。
しかし、当の本人は飄々として捉えどころがなく、それでいて親しみやすい性格であったので、マーガトロイドもすぐに打ち解けることができた。
今では気軽に互いの家を訪ねる間柄である。

「お母さん、おかえりなさい!」
マーガトロイドが入り口の扉を開けると、フワフワとした柔らかそうな金髪に青いリボンを結んだ、可愛らしい少女が飛び出してきた。
「ただいま、アリス。いい子で留守番してたかしら?」
「うん! もう私、子供じゃないもん」
エッヘンと胸を張るアリスの頭を撫でながら、マーガトロイドは巫女とその娘――靈夢を紹介した。
「お母さんは巫女様と大事なお話があるから、アリスは向こうで靈夢ちゃんと遊んであげてくれる? お姉さんだから大丈夫よね?」
「まかせてよ! えーっと…靈夢…ちゃん? 向こうで遊びましょう」
「う、うん…」
モジモジと巫女の後ろに隠れていた靈夢であったが、アリスが強引に手を取って、自分の部屋に連れていってしまった。
微笑ましい二人の様子を見ていた母親たちは、互いに顔を見合わせると、クスリと笑った。
「いい子ね、アリスちゃん。うちの娘にも見習って欲しいものだわ」
「あら、靈夢ちゃんは大人しくて可愛いじゃないですか」
「もう少し積極的になってくれればなぁと思うのよ」
肩をすくめる巫女を見て、視線を子供たちが消えた方向へと向ける。
「…あの子、強がってるんですよ。父親がいないことを私に気にさせまいと」
「…本当に、いい子ね」
「ええ…。でも、そうやって強がっているのが逆に心配なんです。弱さを見せないということは、他者を拒むことに繋がりますから」
「でも、靈夢とは友達になってくれそうよ?」
「表面的には仲良くしていても、心のどこかで支えてもらうことを拒んでしまう…そんなことになりそうで…」
「…考えすぎよ。それに、あの子たちはまだ子供だわ。未来がどうなるかなんて誰にもわからない」
「そう…ですね。疲れてるのかしら、私」
「そうかも。じゃあ、用件だけ、手短に伝えておくわ」
そう言うと、巫女は表情を引き締めた。そこに先ほどの母親の顔はなく、退魔の巫女としての張り詰めた空気が室内に満ちた。
「最近、地震が多いことに気づいてるかしら?」
「そういえば…」
マーガトロイドは唇に指を当てて考え込んだ。深く思案する時の癖だった。
「確かに、今日の往診中だけで3度ほどありましたね」
「ええ、それに、今日に限った話じゃないの。昨日の揺れで神社裏にある山の一部が崩れて、なにやら怪しげな洞窟がでてきたとかいう報告もあるわ」
巫女は肩をすくめた。
「そんなわけで、調査が済むまで、その山の辺りには近付かないように。子供たちにも注意しておいて」
「わかりました」
いつも飄々とした巫女が、真剣な表情で注意を促しているということは、本当に危険なのだろう。
マーガトロイドが頷くと、巫女は少し表情を緩めた。
「まぁ、近付かなければ大丈夫よ。その内封印するから、それまでは気をつけて」
「はい」
「用件はそれだけ。あー、真面目な顔は疲れるわー。お茶貰えるかしら?」
急にだらけた様子で姿勢を崩す巫女に、呆れたような笑顔を向けると、マーガトロイドはお茶の用意を始めた。


2章  紫

最近、アリスは頻繁に博麗神社に遊びに行くようになった。
これまで往診の間は一人留守番をさせて、寂しい思いをさせていたことを気に病んでいたのだが、今では往診の間は博麗神社にアリスを預けることになり、心配の種が減っていた。
「ウチは託児所じゃないんだけどねぇ」
呆れた表情を浮かべる巫女であったが、彼女もアリスを気に入ってるようで、拒む言葉も出なかった。
そもそも博麗の巫女というものは、妖怪が現れない限りは、境内の掃除かお茶を飲むくらいしかやることはないのである。ようするに、暇なのだった。
靈夢という近い年の友達ができたことが、よほど嬉しかったのだろう、アリスは往診の有る無しに関係なく、毎日のように博麗神社に出かけては、日が暮れるまで靈夢を連れまわして遊び回っているようだった。
その日もアリスは遊びに行ってしまい、家の中にはひとり残されたマーガトロイドが、寂しそうに部屋の片隅に置かれた人形に目をやった。
「これももう、必要ないかな?」
それは留守中、アリスが寂しくないようにと、マーガトロイドが作った人形だった。
金髪碧眼の可愛らしい人形で、話しかけると単純な反応を返す簡易魔術が編み込んである。
よく見るとアチコチに解れができていた。アリスがいつも人形で遊んでいた証拠だった。
「今までありがとうね」
マーガトロイドは優しく微笑むと、人形を膝に抱え、慣れた手つきで修繕をし始めた。
しばし作業に没頭していると、不意に「コンコン」と扉をノックする音が聞こえた。
マーガトロイドはいぶかしんだ。幻想郷にこんな上品なノックをする住民はいない。そもそも、日本家屋の板戸に指先での軽いノックはおかしい。あまり音が響かず、住民に気付かれない場合が多いため、大抵はドンドンと叩くか、大声で呼ぶのが普通である。
「…どなたですか?」
扉の前に立ち、マーガトロイドは向こうに居る何者かに声をかけた。まだ扉は開かない。
「ここに、難病でも診てくれるというお医者様がいると聞いて尋ねてきた者です。どうかお話だけでも聞いてもらえないでしょうか」
「…どうぞ」
疑念は捨てきれなかったが、別の街からわざわざ診療に尋ねてきた病人だとすると、無下に追い返すのは寝覚めが悪い。警戒しながらも、扉を開けた。
するとそこには、どうにも場違いな格好をした、奇妙な女が立っていた。
上質な生地であつらえた紫色のワンピースを優雅に着こなし、レース入りの白い日傘を差し立っている様は、西洋の貴族の令嬢のようであった。
予想外な人物の出現に戸惑っていると、女はニッコリと笑顔を浮かべ、
「八雲 紫と申します。以後、お見知りおきを」
と、丁寧に自己紹介をしてきた。
名前から察するに東洋人であるようだが、フワフワと柔らかくウェーブのかかった長い金髪は天然のそれであり、マーガトロイドはしばし呆気に取られた。
「…それで、その八雲さんが私に何か…?」
「紫で結構ですわ」
紫はニッコリと笑みを浮かべた。
「私、最近この近くの街に住むことになりましたの。けれど、そこには腕の良いお医者様がいらっしゃらないようなので…」
そう言うと、紫は1冊の本を差し出してきた。
「今後、こちらにお世話になることもあるかもしれないので、お近づきの印に、どうぞコレを」
訳も分からぬまま、マーガトロイドは本を受け取った。革帯で留められた、高級そうな本だ。しかし、どこか見覚えのある妖気を放つ本だった。
「…! 魔道書!? 何でこんなものを……あら?」
本に気を取られた一瞬の間に、紫は忽然と姿を消していた。今まで何かがいたことさえ幻であったかのような空虚だけが漂っていた。
「何だったのかしら、今のは…」
あれが話にだけ聞く妖怪だろうかとも思ったが、危害を加えるでもなく、魔道書などを置いていく妖怪とは何であろうか?
マーガトロイドは不審がりながらも、受け取った魔道書を慎重に調べた。
しかし、それはマーガトロイドがかつて修めたものと、さほど変わりのあるものではなく、何かの呪が刻まれている様子もない。
魔道書の類は幻想郷に来る前にすべて失ってしまっていたので、むしろありがたい贈り物でもあった。
これがあれば、忘れていた知識を補完できる。より高度な治癒魔術を行使できるかもしれない。魔道書は、魔術の媒体としても使用できるのである。
マーガトロイドは謎の訪問者に礼をすると、本を抱えて家の中へと戻っていった。
しかし、どこか引っかかる女であった。
見覚えはない。しかし、記憶にはある。そんな矛盾した思考がグルグルと回り、マーガトロイドは唇に指を当て、物思いに沈んでいった。
しかし、紫のことはそれ以上思い出すことはできなかった。


3章  祈り

予想通り、魔道書が手に入ったおかげで、マーガトロイドの魔術治療はさらに便利なものとなった。
それまで癒しきれなかった病を消し去ることが可能になり、大怪我を瞬時に癒すことすらできるようになっていた。
これには当のマーガトロイド本人が一番驚いていた。
内容はごく平凡な魔道書であるのだが、魔術媒体としての増幅機能が尋常でないのだ。
マーガトロイドの名は幻想郷に留まらず、近隣の街や村にも噂が広まり、遥々診療に訪れる者が後を絶たなくなった。
しかし、同時にマーガトロイドは恐怖していた。
そもそもこの本は、得体の知れない謎の女からの贈り物なのである。紫はあれ以降一度も姿を現すこともなく、結局、正体は分かっていない。
精神と肉体の両面から、マーガトロイドは疲弊していた。
そんなマーガトロイドの様子を心配した里の者の勧めにより、久方ぶりの休日を得たマーガトロイドは、件の魔道書を前に、ひとり苦悩していた。
(巫女様に相談すべきか…しかし、今はこの本がなくては…)
マーガトロイドを頼りにしてくれる人間は、かなりの数になっていた。そしてそれは、魔道書の力によって支えられている。
マーガトロイドには、名声欲や金銭欲といったものは一切なかった。
生活は里の人々からお礼として貰える作物で十分賄えるものであったので、診療によって代金を受け取ったことは一度もなかった。
それはマーガトロイドなりの償いだった。
故郷を捨て、夫を弔うこともなく、悪魔の誘いだったかもしれない腕に身をゆだね、今、のうのうと幸福を享受している自分に対する、罰。
ひとりでも多くの人々を救うことで、罪が雪がれるのではないかと信じ、多少の無理をおしてでも、多くの患者を受け入れてきたのだ。
(罪を背負うのは私だけでいい。罰を受けるのは私だけでいい。でも、アリスには…あの子には、ずっと幸せでいて欲しい…)
それが唯一の願いだった。
「やはり、これは自分の胸のうちに仕舞おう…」
得体の知れない本であることは承知している。しかし、この本のおかげで救われている命があるのも事実だ。マーガトロイドは無形の恐怖よりも、有形の実益を選んだのだった。
たとえこの本が邪悪な物であったとしても、使っているのは自分である。ゆえに、災厄があるとしても、自分だけがそれを負うに違いない。それならば、それで構わない。それまでに、多くの命を救えるならば…。
ひとり決意し、本を仕舞おうとしたところで、
「お母さん、ただいまー」
アリスの元気な声が響いた。同時に、入口の引き戸が開かれる。
いつもは日が暮れるまで遊びまわっているアリスが、昼前の早い時間に戻ってくることは想像していなかった。
アリスは珍しく休みを取った母に甘えるために早く帰ってきたのだが、マーガトロイドが知るよしもない。
マーガトロイドが慌てているうちに、アリスは目ざとく魔道書に目を向けた。
「なになに、その本! すっごく高そう。ウチにそんな本があったのねー」
無造作に魔道書に手を伸ばすアリスの姿に我を取り戻したマーガトロイドは、アリスが本に触れるより先に、素早い動作で本を後ろ手に隠した。
「こ、これはお仕事に使う大事な本なの。何かあったら困るから、アリスは触っちゃダメよ?」
「えー、私もお仕事手伝えるよ。お母さん、いつも疲れた顔してるもん。私だって役に立ちたい!」
「気持ちは嬉しいけど、まだアリスには早いわ。いい子だから、言う事を聞いて…」
マーガトロイドは嬉しさと罪悪感で張り裂けそうな心を必死に抑え、言葉を振り絞った。
「巫女様に習って字も覚えたのよ。本だって読めるもの。私も…」
しかし、アリスは止まらない。マーガトロイドの後ろに回り、本に手を伸ばそうとする。
「ダメだと言ってるでしょう! この本に触ることは絶対にダメ!」
「ひっ!」
思わず怒鳴りつけてしまうと、アリスはビクリと身を縮め、ゆっくりとマーガトロイドの顔を見上げ、そして…ワンワンと泣き出してしまった。
(私は何をやってるんだ…!)
マーガトロイドは泣き叫ぶ我が子を見て、愕然とした。
アリスは純粋に、マーガトロイドの身を心配していたのだ。そして、一刻も早く手伝いができるように、遊びに行くと言いながら、勉強もまた、巫女にお願いしていたのである。
娘に知らずに心配をかけていたこと、そして娘の頑張りに気付けなかったこと…マーガトロイドは自分の愚かさを心の内で責めつつも、アリスを自分に引き寄せた。
「ゴメンね…ゴメンね、アリス。強く言うつもりはなかったの。でも、この本はまだあなたが扱うには危険なの。だから、聞き分けて頂戴…」
泣き続けるアリスを優しく抱きしめながら、マーガトロイドは悔恨の意を込めて、ゆっくりと諭すように言った。
「あなたの気持ちは本当に嬉しい…ホントよ? あなたに心配させていたなら、私も謝るわ。もう無理はしない。だからアリスも、私の言うことを聞いて…ね?」
「…グスッ……うん…」
まだ鼻を啜っているが、泣くのを止めたアリスは、渋々という感じで頷いた。
「いい子ね…」
アリスの頭を撫でながら、マーガトロイドは天を仰いだ。
(ああ、神よ…アリスはこんなにも親想いの優しい子に育ってくれました。罰はすべて愚かな母である私が受けます。だからどうか、この子には、どうか…!)
それは魂の慟哭。血の叫び。
あの時と同じように祈ることしかできない己の無力さに、マーガトロイドは自責の涙を流した。


4章  絶望の足音

その日、幻想郷は珍しく緊迫した空気に包まれていた。
本来、群れることのない妖怪が、集団で里に襲撃をかけてきたというのだ。
博麗の巫女を中心に、退魔師や里の男たちが応戦のために駆り出され、里の中は女子供や老人、巫女に里の守りを任された少数の男たちとマーガトロイドだけが残されていた。
静まり返る里の中を、交代で見回りに出ていた時、マーガトロイドは再びあの女と出会った。
――八雲 紫。
数ヶ月前と寸分違わぬ姿で現れた紫は、何の邪気も帯びぬ笑顔を向けると、上品に小さく手を振って見せた。
そのあまりの場違いな様子に、マーガトロイドは苛立ち混じりに紫に詰め寄った。
「こんな所で何をしてるんですか! 妖怪が攻めてきているんです、早く避難してください」
聞きたいことは色々あったが、今は緊急事態なのだ。マーガトロイドは自制して非難を促したのだが、紫の応えは意外なものだった。
「その妖怪の件で、お話に来たのだけれど」
「?」
いぶかしむマーガトロイドを横目に、紫はゆっくりとした動作で、山の一点を指差した。それは博麗神社のある方向だった。
「あの山の麓に、大きな洞穴があります。妖怪たちはそこから湧いているようです。今は沈静化していますが、いつまた活動を再開するかわかりません」
「なら、それを巫女様に…」
「博麗の巫女様は現在、妖怪の一団と交戦中です。そちらまで気を回している余裕はないでしょう」
「では、どうしろと…」
「あなたに行ってもらいたいのですよ、マーガトロイドさん」
紫の瞳が一瞬、妖しい輝きを帯びた。
「もし、そこに妖怪を統率する何かがあるとすれば、それを排除すればこの騒ぎは終わります。勘違いだったとしても、あなたが動く分には戦況に影響はありません」
「……」
「手に負えないようでしたら、すぐに戻ってくればいいだけのこと。百利はあっても一害もない提案だと思いますけれど」
「……」
紫の提案はもっともだった。妖怪襲撃の原因が不明である以上、事態の沈静化に役立つならば、試してみる価値はある。なにより、負傷者を減らせるかもしれないのだ。癒すことができるといっても、万が一ということもある。負傷者は少ないにこしたことはない。それに、マーガトロイドは癒し以外の魔術の覚えもある。何かがあった時の対処も可能だ。
しかし、マーガトロイドは紫を信用することができないでいた。一言でいえば胡散臭い女である。
確かにあの魔道書には助けられてきた。
アリスとの口論の原因になったこともあるが、未だ副作用も呪いも何もない。そして、多くの救えないはずの命を救えたのも、あの本のおかげである。
それでも、心のどこかで警鐘が鳴っている。この女は危険だと。この女は不吉だと。
躊躇するマーガトロイドの様子を楽しそうに見守っていた紫であったが、不意に思い出したように手をポンと叩くと、さも名案とばかりに微笑んだ。
「では、こう言い替えましょうか」
紫の口元が朱色の線を引いた亀裂のような笑みを形作った。
「あの時の借りを返してください、と」
紫のその言葉に、マーガトロイドはビクリと震えた。今、この女はなんと言ったか?
「…借り、とは…あの本のこと、ですか…?」
そうであって欲しいと、マーガトロイドは祈る気持ちで言葉を吐き出した。むしろ、紫との接点はあの本だけのはずなのだ。あの本だけでなくてはならないのだ。
「それもありますが…」
紫は心底楽しそうにマーガトロイドの顔を覗き込んだ。蒼白になり、微かに震え、冷や汗をビッシリと浮かべる姿に満足した様子で、茶化すように絶望の一言を告げた。

「あなた方親子の命を、救って差し上げたでしょう?」

その時、マーガトロイドは自分の足元がガラガラと崩れ落ちていくのを感じた。
ついに審判の時が来たのかと、絶望に目の前が暗くなった。
神の奇跡か、悪魔の気紛れか、どちらかだとは思っていた。
あっさりと百を超える命を奪った謎の力と冷酷さ、瞬時に遥か遠方に他者を転移させる能力、そして言語中枢すらも書き換える奇跡の業――。
人間ではありえない。妖怪でもこれほどの力を備えているものだろうか? かといって、とても神とは思えない。では、この女は――。
「あ、悪魔…!?」
的外れなマーガトロイドの呟きに、紫はさも可笑しそうに笑った。
「人間はそうやってすぐ、神だの悪魔だのと、己の理解の範疇を超えるモノを定義付けたがるのですね。悪魔も見方を変えれば神と呼ばれることもあります。でも、私はあなたに何か害悪を与えましたか? 悪魔だなんて、傷つきますわ」
「し、しかし、あなたが神には、とても…」
「私が神だと名乗った覚えもありませんわ。私の名は八雲 紫。神でも悪魔でもありません。八雲 紫という名の一個人にすぎません。もっとも…」
紫は意地悪く笑う。
「少なくとも、人間と分類されるものではありませんが」
紫の存在は、マーガトロイドの理解を遥かに超えていた。
超常の力を操る妖怪の姿は、多少なりとも目にしていた。しかし、彼らは自然の一部の具現であったり、人の想念の結晶であったりと、その存在に理由が見出せるものたちばかりであった。
しかし紫は違う。この女だけは、他の何よりも異質であり、何にも混ざらず、何にも属していないようだった。
まさに「八雲 紫」という固体なのだ。そしてそれは、絶大にして理解不能の力を備えているのである。意思を持つ天災など、悪夢以外の何ものでもない。
「わ、私は…」
ヨロヨロとふらつきながら、マーガトロイドは言った。
「いつか、報いを受けるのだと思っていました。人の身にあまる奇跡を体験してしまったのだから。そして、本来得るべくもない幸福を手に入れてしまったから…。だからこそ、罪を清算すべく、身を削って人の為に尽くしてきました」
マーガトロイドは、紫と目を合わせた。どこまでも深く、吸い込まれそうな程の深淵がそこにあった。しかしそれは限りなく虚無であった。マーガトロイドはその何ものでもない瞳に戦慄しながらも、言葉を続けた。
「そうすることが私の罰で、そうすることでアリスに罪はないと証明できると、信じていたからです…」
力なく、紫の服を掴む。
「けれどすべては、私の思い込み…自己満足にすぎなかったんですね…」
「その通りです」
何の慈悲もなく、紫は言った。
「神への誓い、悪魔への貢物、そんなものに意味はありません。無論、それらが人を裁き、呪うこともありません。すべては人間の弱さゆえの逃避。あなたの罪悪感もまた、無意味なものですわ」
紫の声をどこか遠くで聞きながら、マーガトロイドは握る手に力を込めた。
「あなたは神ではない」
「そして私は悪魔でもない」
「けれど――ここに在る恐怖だ!」
マーガトロイドは言葉と共に、魔力の塊を紫に撃ち放った。避けられないように服の一部を握り、動きを止めて。
しかし、その魔力弾が紫に当たることはなかった。紫はまるきり避ける素振りを見せず、マーガトロイドの片腕は、確かに紫の衣服を掴んでいるというのに。
「乱暴ですわね。何をそんなに怯えているのかしら?」
クスクスと笑い声が聞こえる。
それはマーガトロイドの後方から聞こえた。紫は確かに目の前にいるのに!
驚愕の表情で、マーガトロイドは自分が掴む衣服の先を見た。掴んだのは左の胸元の辺りだった。確かにそこに衣服を掴んだままの手がある。しかし、紫の右半身から上が、丸々存在しなかった。
マーガトロイドの攻撃で吹き飛ばされたわけではない。まさに「存在しない」のだ。
そしてその存在しないはずの右半身は、それだけでフワリと浮かび、マーガトロイドの後方から話しかけているのである。
「こ、の…化け物!」
「それは心外」
振り返り様に再び魔力弾を撃ち放ったマーガトロイドであるが、それもまた当たることはなく、紫の右半身は元通り、左の半身とくっついて身の前に現れていた。
「コレ」には勝てない。マーガトロイドは息を呑んだ。
まるで魂そのものを手中に握られているような圧迫と恐怖を、一瞬たりとはいえ跳ね除けたのは、ひとえにマーガトロイドの執念であった。
しかし今、こうして理解不能の恐怖を目の当たりにすると、闘争の炎は二度と心に燃え上がることはなかった。ただ、恐怖だけが全身に満ち、自然と涙が零れ落ちた。
それは原初の恐怖。絶対者への畏怖。抗うことのできぬ運命。
それを受け入れてしまった時、マーガトロイドは絶望に呻き、嗚咽を漏らしながら紫の前に跪いた。まるで神に懺悔する使徒のように。
そんなマーガトロイドを困った顔で見下ろしながら、紫は呆れた調子で声をかけた。
「…何を勘違いしてるか知らないけれど、私は最初から、あなたやあなたの娘になんて興味はありません。助けたのも魔道書を差し上げたのも気紛れです」
「……へ?」
間抜けな声を出して、マーガトロイドが顔をあげた。
「もちろん、償いなんて要求しないし、見たくもありません。ただ、私の気紛れに恩を感じているのなら、私のお願いを聞いてもらえないかしら?」
「お、願い…?」
「最初に言ったでしょう? あの山の麓にある洞穴の中を調べてきて欲しい、それだけですわ」
信じられないモノを見るような目で、紫を見上げるマーガトロイド。その視線にニッコリと笑顔を返す、紫。なんて胡散臭い存在なのだろう!
しかし、紫の言葉が事実であるならば、神や悪魔といった自然ならざる理不尽な力により、アリスの身に危険が降りかかる可能性は消えたのだった。
もっとも、紫自身がどう動くかは、まるで想像できないのだが。
「…それであなたの気が済むなら、調べてきましょう」
ヨロヨロと力無く立ち上がると、マーガトロイドは言った。
「それで結構ですわ」
紫は満足そうに頷くと、音も無く消えた。
紫が消えた跡をしばらく無言で眺めてから、マーガトロイドはポツリと呟いた。
「…この世には、神も悪魔もいないのね」


5章  消エル、想イ

紫の示した洞穴とは、以前に博麗の巫女が近付くなと言っていた、地震で開いた洞穴だった。
あれから数ヶ月が経っており、幾度か調査もされたらしいが、どこまで歩いても果てが見えないほど深い洞穴だったという。
妖怪の住処にされては困ると、巫女も何度か封印を施たということだったが、地震の度に封印が破れると、巫女が頭を抱えていたのを思い出した。
入口周辺に生き物の気配はない。
マーガトロイドは慎重に洞穴の中へと足を踏み入れた。
中はヒヤリと冷たい空気に満ちていた。自然洞窟のようで、入口だけが塞がっていたらしく、奥は深くまで続いていた。ここにも生物の気配はない。
「火の精霊よ…」
印と呪を組み念じると、チロチロと光る鬼火が目の前に現れた。明かりはこれで十分であろう。
均された気配のないデコボコとした岩肌を進む。居住空間としては最悪な状態である。また、野営や食べ残しといった、生活跡がまるでない。本当にこんなところに妖怪の群れが潜んでいたのだろうか…?
そんな疑念を持ちながらも進んでいくと、やがて広く開けた場所に出た。
巫女の言うほど長い距離を歩いたつもりはなかった。それとも、ここが「果てのない洞穴」なのだろうか。そこはドーム状の空間で、鬼火を飛ばしても天井や壁が見通せないほどの広がりを持っていた。確かに、妖怪の集団が潜むには絶好の場所かもしれない。
しかし、どこか違和感を感じる。妖怪とは違う異質な気配が、この空間には満ちている。それはまるでここが異世界であるかのような錯覚をマーガトロイドに覚えさせた。
ただ、地面の感触が変わらないことだけが救いだった。確かにあの洞穴から続いている空間のようだ。あまりに非常識な広さに、精神が萎縮しているのかもしれない。
妖怪たちはここを根城にしていたのだろうか…。
気持ちを本来の目的に切り替えて、何か異常の痕跡を探す。紫がわざわざ見て来いというのだから、何かがここにあるのだろう。
果ての無い闇の中を進んでいくと、やがて大きな岩の塊が目の前に現れた。
鬼火で照らすと、それはなんとも奇妙な形をしていた。
見上げるほど巨大な円柱に、左右3対、6枚の蝙蝠の翼状のオブジェが生えている。それらは黒とも紫ともつかない色彩を帯び、脈動するように輝きを放っている。
否、実際に脈動しているのだ。岩の内部を紅色の線が血管のように走り、それがドクドクと明滅を繰り返していた。
「これは、いったい…?」
これが妖怪を統率するものなのだろうか?
しかし、こんな異様なものがあれば、巫女が放置しているとは考えにくいのだが…。
謎の建造物に向かって一歩を踏み出した時、頭の中に直接、叩きつけるような思念が流れ込んできた。
『汝、その身を我に捧げよ』
「ぐぅッ!?」
脳を、精神を、直接揺さぶる言葉の衝撃。
誘惑でも幻惑でもない、力任せの精神支配だった。否、魂を破壊せんとする、触れることのできない暴力の渦であった。
『その身を我に捧げよ』
「ああぅッ!」
言葉が波動となって周囲に満ちる。それらは互いに共鳴し、増幅し、中心にいるマーガトロイドの精神に衝撃として何度も叩き込まれる。
反射的に頭部を押さえる。しかしこの言霊は物理的なものではない。あらゆる物体を透過して、生物の魂そのものに干渉しているのだ。抗う術などなかった。
『我に捧げよ』
「こ…れが…罰…か…」
辛うじて分かるのは、自分がまだ立っていることだけ。そして、これが紫の陰謀であったという事実。そして――。
『捧げよ』
「…あ…り………す……」
――最も愛しい者の面影。
魂を引き裂く静寂の轟音が、マーガトロイドの全身に響き渡った。
最後に脳裏を過ぎった愛娘の影さえも、一瞬の感慨を与える暇なく消滅し尽くし、マーガトロイドという魂は無に還った。そこに残るのは魂の抜け殻。外傷ひとつないままに、魂だけが抜け落ちた人の形が佇んでいた。
最初に響き渡った『声』により、鬼火はとうに消えていた。
絶対の暗闇の中で、唯一微かな光を放っていた巨大建造物から、光が消えていく。
脈動していた紅の光は徐々に収縮し、やがて輝きを失うと同時に動きも止めた。
完全に光を失った建造物は、その不自然な構造に自重が耐え切れなくなったかのように、翼の部分から崩壊し、地面に突き刺さるように落ちていく。
もうもうと土煙が巻き上がり、巨石が倒壊する轟音が響くなか、突如として土煙や岩塊を吹き飛ばしながら、闇の中にありながら更に闇色に輝く6枚の翼が、ドクドクと生在るものの息吹を宿して羽ばたいた。
翼の中央にはひとりの女の姿があった。
背中から禍々しき黒とも紫ともつかぬ色彩を放つ左右3対6枚の翼を生やしたその姿は、変わり果てたマーガトロイドその人であった。
マーガトロイドの姿をしたモノは、恐る恐るといった風情で自分の身体を動かしていく。足首、膝、腿、腰、手首、上腕、首と、下から徐々に、動くことを確かめるように確認していく。
そして最後に、歓喜の雄叫びを上げるかのように6枚の翼を一杯に広げ、震わせる。
振動は空間に満ち、花火のような爆光をあちこちであげた。
「それ」はニヤリと、マーガトロイドが浮かべるには不似合いな邪悪な笑みを口元に湛えた。


6章  小町

妖怪の襲撃は突如として収まった。
それまで攻撃的だった妖怪たちが、ふと我に返ったような表情になり、人間たちと戦っている事実を認識すると同時に、一斉に逃げ出していったのだった。
後に残された巫女や男達は、何事が起きたか理解することもできず、ただ呆然と逃げる妖怪たちの背中を見送るだけであった。
しかし、この戦いの最中、里に残っていたはずのマーガトロイドの姿だけが、忽然と消えてしまっていた。
里に残っていた男達の証言では、見回りに行ったきり帰ってこないのだという。
四方八方、手を尽くして捜索したものの、結局マーガトロイドの消息を知ることはできなかった。
見回りの最中、妖怪に連れ去られたのだと、里の人間や、彼女に世話になった人々は涙し、幻想郷すべてを巻き込むほど盛大な葬儀が執り行われた。それは、マーガトロイドが行ってきた善行の証であった。

葬儀の手続きが一通り済んだところで、博麗の巫女はある場所に向かった。
――無縁塚。
縁者や身寄りのない無縁仏が大量に奉られているところである。
巫女は時折ここを訪れては、遺棄された無縁仏の供養を行っていた。
しかし、今回彼女がここに来たのは、無縁仏の供養のためではなかった。
薄く張り詰めた怨念と霊気が満ち、それらに中てられて薄気味悪く形状を歪めた木々が乱立する中で、ひときわ年輪を重ね、禍々しく姿を歪めた巨木があった。その根元に、そんなことは関係ないとばかりに豪胆にいびきをかいて寝ている女の姿があった。彼女こそ、巫女の目当ての人物だった。
「小町、起きなさい」
「…う~ん、あと5分~」
「お約束な反応してんじゃないわよ。こっちは急いでるんだから、早く起きないと成仏させるわよ」
「そりゃ勘弁願いたいね」
小町と呼ばれた女は、ヒョイと飛び起き、巫女の姿を認めると、毒気の無い顔でニヤリと笑った。
「まだまだ娑婆を満喫しきってないんだ。こんな中途半端で成仏させられたら、地獄行き間違い無しだよ」
「満喫したから天国に行けるってもんじゃないでしょ」
頭を抑えて巫女は呻いた。小町は気にした風もなく、カラカラ笑うと、
「んで、どうしたの? あんたのそんな深刻そうな顔は初めてみたよ」
少し表情を戻して、訊ねた。
「あんた、死神に顔が利くでしょ? それで、マーガトロイドって女性の魂が川を渡ってないか、聞いてきて欲しいのよ」
「確かに利くけど、あいつら、事あるごとに、あたいを船に乗せようとするから、あんまり会いたくないんだよねぇ」
とぼけた調子で小町は続ける。
「それに、あいつら役所仕事だから、いちいち乗客の名前なんて覚えてないよ」
「大丈夫。最近、凄い金額の船賃を渡した客がいないか聞いてくれるだけでいいのよ。それが彼女に違いないから」
「どれだけ人徳のあるヤツが死んだんだい…って、あー、マーガトロイドの医者先生か。何、死んじまったのかい?」
「行方不明なんだけど、一月探して痕跡も見つからないから、死んだことになってる。今、葬式あげてるわ」
「葬儀を抜けるとは罰当たりな巫女め」
「亡霊に罰当たりと言われるとは思わなかったわ…。それに、葬儀は神社の仕事じゃないのよ。問題なし」
「そういう問題なの…? まぁいいや、どうせ暇だし、後で美味い酒の一杯くらい奢ってよ」
「はいはい」
ヒラヒラと手を振りながら何処かに消えていく小町の姿を見送り、巫女はため息をついた。
小町は理由は分からないが、無縁塚に住む亡霊である。
妖怪が跋扈する世の中、亡霊の一人や二人、珍しくもないが、常人では入ることのできない三途の河への抜け道を知っていたり(生身の人間では行けないらしいが)、そこの死神と顔見知りだったりと(その死神は職務怠慢なのではないか)、普通の亡霊(というのもおかしいが)とは少し毛色が違う。
その特質上、行方不明者の生死確認に、たまに利用することがあり、小町と巫女は奇妙な友情関係にあった。
やがて、小町が行きと同じようにダラダラと歩いて帰ってきた。歩きながら、頭上でバッテン印を手で作る。
「この辺一帯の死神に聞いてみたけど、最近もしけた客ばかりだってボヤいてたよ。そんな上客がいたら逃がしてないってさ」
「…ふむ」
それはつまり、マーガトロイドはまだ生きていることの裏付けでもあった。
小町から聞いた話であるが、死神には管轄というものがあり、それは故人の出身地などには関係なく、最後に土に還った場所が基準になるのだという。
つまり、幻想郷で死ねば、必ずここの死神のお世話になるはずであり、その死神が知らないというのであれば、マーガトロイドが生きている可能性は高いと言えるのだった。
(彼女がアリスちゃんを置いて、どこか別の土地に行くとも考えられないし…)
巫女はマーガトロイドが自分の身体も省みず、何故無茶な診療を続けるのか、その理由を知っていた。
すべてはアリスが幸福に生きるため。すべてはアリスに罰が落ちないようにするため。
あれだけ娘を愛していた親が、娘を置いていく理由はない。
何か、巫女も与り知らない所で、暗い陰謀が渦巻いているような気がして、襲ってきた寒気から身を守るように、巫女は自分の身体を抱きしめた。


7章  さよならの意味

その後、アリスは博麗神社に引き取られることになった。
マーガトロイドの死亡は否定されたとしても、本人が見つからないのでは仕方がない。
巫女は下手な希望を持たせるのは良くないだろうと判断し、小町の情報は自分の胸にだけ秘めておくことにした。
そして、身寄りのないアリスを引き取ることを了承したのだった。
しかし、アリスは1日の大半を以前の生家で過ごすようになった。
明るく人懐っこい笑顔は消え、沈んだ表情でいることが多くなった。
母が残した人形を抱きしめながら、部屋の隅で泣き続ける日々が続いた。

その日も、アリスはいつものようにマーガトロイドの家で膝を抱えていると、コンコンと入口の引き戸が叩かれる音がした。
巫女や靈夢が迎えに来る時は、声をかけるか、もっと大きく戸を叩く。他の人でも同様だ。
いつもと違う音に惹かれるように、フラフラと入口の戸を開けると、そこには見覚えのない女が立っていた。紫色のワンピースを着て、白い日傘を差した、人形のように美しい女――八雲 紫であった。
「…どなたですか?」
「あら、礼儀正しいのね」
紫はニッコリと微笑むと、目線をアリスに合わせるように身を屈めた。
「私はあなたのお母さんと友人だった者よ。お母さんが亡くなられたと聞いて来たのだけど、葬儀はもう終わってしまったのね」
「……」
アリスは「お母さん」という単語を聞くと、途端に涙を溢れさせた。しかし、人前で泣く事を嫌ったのか、乱暴に目元をこすると、睨み付けるように紫に視線を戻した。
紫はそれを気にする風もなく、どこからか1冊の本を取り出すと、アリスの前に差し出した。アリスはそれに見覚えがあった。
「お母さんの本!」
「ええ、あなたのお母さんが大切にしていた本。私が預かっていたのだけれど、いつまでも引き取りに来られないから、直接こちらに足を伸ばしたの」
そう言うと、紫はアリスに本を渡した。そして、本にアリスが釘付けになっているのを確認してから、口を開いた。
「…実はね、アリスちゃん。お母さんはまだ、生きてるのよ」
「……え?」
アリスが顔を上げた時、そこには既に紫の姿はなかった。
夢でも見たのかと思ったアリスであったが、そこには確かにマーガトロイドの魔道書が残っていた。
ということは、あの言葉も…?
「お母さんが、生きてる…?」
その言葉だけがアリスを支配し、日が暮れて巫女が迎えに来るまでの間、アリスはずっとその場に立ち続けていた。

――お母さんが生きてる。
その言葉は、アリスの中でどんどん膨らんでいった。得体の知れない謎の女の言葉であったが、不思議と真実味を帯びているように感じられた。
しかし、アリスには母を捜す術はない。本当に生きてるかも分からない。何か確証が欲しかった。
そんな時、アリスの様子を心配した靈夢が、マーガトロイドの家を訪ねてきた。
アリスはどうにか母のことを調べたかったため、靈夢にその不思議な体験を話してみた。本については黙っておいた。
すると、それまで口も利いてくれなかったアリスが、自分にそんな秘密を打ち明けてくれたことが嬉しくて、靈夢は母から内緒だと釘を刺されていたことを教えてしまった。
それは、無縁塚の亡霊の話。
靈夢の母は行方不明者が出ると、この無縁塚の亡霊に話を聞きに行くという。その亡霊は死神と友達であり、その人物が死んでるのか生きてるのかを教えてくれるのだという。
それを聞いたアリスは、すぐさま出発することを決めた。靈夢も道案内として付いていくことになった。

無縁塚は不気味なところだった。
常に湿ったような空気が漂い、樹木はありえない方向に捻じ曲がったものばかり。足元には人とも獣とも判別できない骨が転がり、そこら中に供養仏が飾られていた。
子供二人はビクビクしながら無縁塚の中を歩いていく。すると、背後に影が生まれ、
「悪い子は食~べちゃ~うぞ~!」
「「!!!!?????」」
突然の「食べる」発言に、一気に恐慌状態に陥った二人は、後ろを振り向くことなく一目散に逃げ出した。
「ぎゃおー! 待て待てー!」
「こ、来ないでー!?」
逃げても逃げても追いかけてくる謎の声。二人は必死で走り続けていたが、やがて後ろから「ぷっ…はははっは!」と、場違いな大爆笑が聞こえてきたので、二人は恐る恐る振り返った。
するとそこには腹を抱えてのた打ち回る、大柄な女がひとり。
そこで二人は初めてからかわれたことに気付き、顔を真っ赤にして怒りだした。
「いや~、ごめんごめん。こんな所に可愛いお客さんが二人も来るなんて珍しいからさ。お詫びに、あたいができることなら何でもしてあげるよ」
「…じゃあ、小野塚小町って亡霊を知ってたら、教えて」
アリスの言葉にポカンとする女。すると再びギャハギャハと笑い転げ始めた。
何が可笑しかったのか皆目検討もつかない二人は、呆然と女の笑いが収まるのを待つしかなかった。
「あー…、嬢ちゃんたちが探してるのは、あたいのことだよ。で、なんだい、子供だけでこんな所まで。それにあたいを探してるなんて、普通じゃないねぇ」
目の前で笑い転げていた女が探していた亡霊だと知り、二人は再び呆然となった。二人の中で「亡霊」のイメージがガラガラと崩れ落ちた瞬間だった。
しかし、気を取り直すと、アリスは真剣な表情で小町に言った。
「あの、マーガトロイドっていう女の人を探してるんです。小町さんは行方不明の人がどうなったか知ってるって聞いたから…」
段々と泣きそうな声になっていくアリス。それを宥めるように、靈夢はアリスの背中をさする。
「…同じ人の生死を何度も尋ねられるのは珍しいねぇ」
「…え?」
「いや、マーガトロイドったら、有名な医者先生のことだろ。前に博麗の巫女も同じこと聞いてったんだよ」
「お母さんが!?」
「なんだ、何処かで見た顔だと思えば、あんた、あの巫女の娘かい。母親と違って可愛い顔してるねぇ」
ウリウリと靈夢のほっぺたをこねくり回す小町の横で、アリスが必死の形相で小町にしがみついてきた。
「それで、お母さんはどうなってるんですか!?」
「あー、こっちは医者先生の娘かい? 有名人の子供に囲まれるってのも、変な気分だねぇ」
「そんなことはどうでもいいから、お母さんのことを教えて!」
「おっと、短気は損気だよ、覚えておきな。つーても、生きてるってことは巫女には教えたから、もう知ってるんじゃ…」
「生きてるの!?」
「じゃあ、何でお母さんはあんなことを…」
二人の様子から、小町は己の失言に気が付いた。
理由は分からないが、巫女はマーガトロイドのことは子供達――いや、恐らくは里の誰にも打ち明けていないのだろう。
そういえば、あの時の巫女の様子は少し変だったような気がする。
「あー……参ったな、こりゃ」
ボリボリと頭を掻く小町の腰元には、未だギャーギャーと騒いでいる子供が二人、ぶら下がっていた。

無縁塚からマーガトロイドの家に戻った頃には、すっかりと日が落ちていた。
しかしアリスは、博麗神社に帰ろうとはしなかった。
「お母さんにも、何か事情があったんだよ」
「……」
小町と別れて以後、何度も繰り返したやりとりだった。しかしアリスはただ沈黙を続けるだけだった。
何の反応もないアリスの様子に涙目になりながら、靈夢は言った。
「わ、私が、きっとアリスちゃんのお母さんを見つけてくるから!」
「……」
アリスに反応はない。靈夢は涙をポロポロこぼしながらも、ずっとアリスに誓い続けた。
「約束、するから!」
「……」
「きっと、だから!」
「……」
やがて、靈夢はグシグシと涙を拭きながら、博麗神社へと帰っていった。しばらくすれば、巫女が血相を変えて飛んでくるだろう。
一人残されたアリスは、靈夢が去って行った方を見ると、ポツリと呟いた。
「ねぇ、靈夢…私、見つけてしまったのよ」
誰もいないその場所へアリスは言葉を続けた。手にした本を開き、パラパラとめくると、あるページで止めた。
「お母さんは生きてる…でも、すぐには会えないかもしれない…。お母さんは魔法使いだった…だから、もしかしたら、これで…」
そのページには、「捨虫の魔法」と書かれた呪法が記されていた。それは成長を止める魔法。無限の時を約束する魔法。そして――人を妖怪に変える魔法。
「…ありがとう、靈夢。私、あなたのこと忘れないよ」
そうしてアリスは、マーガトロイドの魔道書と、その昔に母が作ってくれた人形を抱えると、家を出た。
一度だけ神社のある方角を振り返り、一番の親友に向けて、最後の言葉を紡いだ。
「さよなら」
その後、アリスは靈夢たちの前から姿を消した。


8章  神綺

「くっ…」
カシャンと、乾いた音を立ててグラスが割れた。慌てて傍に控えていたメイドが駆け寄る。
「神綺様、お怪我は!?」
「大丈夫、気にしないで」
片手で顔を押さえ、大量の汗を額に浮かべながら、神綺と呼ばれた女は、駆け寄ってきたメイドを空いてる方の手で制した。
「グラスの片付けだけお願い」
「承知いたしました」
テキパキと割れたグラスの処理をするメイドの横で、神綺は忌々しそうにギリリと奥歯を噛み締めた。
「マーガトロイド…まだ私の邪魔をするの…!」
そう呟いた女の姿は、まさしくマーガトロイドと呼ばれた女性その人であった。
ここは魔界と呼ばれる地底世界。
かつて存在した地下帝国でもある魔界は、地上の神々との戦いによって滅亡した。
魔界を司る神であった神綺の魂を滅ぼすことができなかった神々は、魔界諸共に神綺の魂を地下深くに封じ込め、そうして魔界の存在は忘れ去られることとなった。
しかし、気が遠くなるほどの歳月を待ち続け、ついに肉体を得ることに成功した神綺は、封じられた魔界の都市を再建し、呪われた臣民たちを再創造したのだった。
虚無の闇が広がるのみだった空洞はすでになく、煌びやかな明かりに彩られた雅な地下都市がそこに復活していた。
その魔界最深部にて、神綺はひとり、玉座に深く腰掛けながら思案していた。唇に指を当てる癖はそのままに。それがマーガトロイドの癖だと思い至ると、苦々しく爪を噛んだ。
「魂を破壊された者が、何故まだ私に纏わり付く…!」
あの日、マーガトロイドが紫の策謀により、この地に来た日。
神綺の魂が封印された巨石は、千載一遇のチャンスを得たとばかりに、全力で哀れな虫けらを攻撃した。
魔界の神の力すべてを一身に受けて、狙い通り抗う暇すら与えずに、精神を崩壊させることに成功したのだ。
そして肉体を乗っ取り、神綺はかつての栄華を取り戻すに至った。
しかし、器となった肉体の脆弱さゆえか、本来の力をすべて揮うこと叶わず、魔界の再建だけでも莫大な時間を必要としてしまった。
更に、肉体転写の秘法は長大な時間をかけて用意する儀式魔法である。
肉体の入れ替わりを簡単に行うわけにもいかず、神綺は未だマーガトロイドの身体に縛られていた。
そしてこのマーガトロイドの身体の中にいると、神綺は時折、恐ろしいまでの郷愁の念に支配され、身体の自由を奪われるのだった。
原因は分かっていた。
アリス。この身体の娘。今際の際に、もっとも強く魂に刻み込んだ者。
それが呪となり、神綺を縛り付けるのだった。
「ならば、あなたの望みを叶えてあげましょう」
神綺は邪悪に歪んだ笑みを浮かべると、玉座の後ろに広がる紅の湖の前に立ち、呪を唱え始めた。
それは生命創造の秘法。今の魔界のすべての住民を生み出した、神の奇跡。
神綺の祝詞が高く、高く、魔界の全土にこだまする。
それは生命誕生の歌。命の賛歌。
魔界と地上の境界を守る紫髪の少女が、そっとその声に耳を傾けた。
その横で、金髪を白い帽子で隠した少女が、その声に優しく微笑んだ。
雪と氷に閉ざされた極寒の世界で、黒と白の二人の少女が、その声に顔を見合わせた。
神綺の居城であくせく指示を飛ばしていたメイド長が、その声にしばし足を止めた。
みな、知っているのだ。これが子守唄であることを。
この歌に抱かれて、みな、産まれてきたことを。
魔界に住む全ての命が、新しく生まれる家族の誕生を祝福した。
ただひとり、造物主たる神綺だけが、特別な想いでその娘を見下ろしていた。
祝詞に合わせて、紅の水が揺れる。それはやがて固体となり、人の四肢を持つようになり、そして一人の少女の形を成した。
神綺は濡れることも構わず水の中に入り、新しく生まれた命を静かに抱き上げた。
「魔界へようこそ。お前の名はアリス。私の娘よ」


9章  アリス -1

アリスは狂っていた。
深く、静かに狂っていた。
「人形を作りましょう。今度こそ、うまくいく気がするわ」
アリスは狂っていた。
誰にも気付かれない程の狂気を心の奥底に宿しながら。
「まだお母さんに会える日は遠そうね」
アリスは狂っていた。
鼻歌と共に、人形に命を吹き込みながら。
「ああ、今日の人形も失敗だわ」
アリスは狂っていた。
逢えない母への深すぎる想いに、心も身体も焦がしすぎて。
「今度こそ、私がちゃんと作ってあげるね」
アリスは狂っていた。
逢えないなら、自分の手で逢えばいいのだと考え至るほどに。
「ねぇ、お母さん」
アリスは


10章  アリス -2

誰かが倒れる音がした。
それは少女にとって信じることのできない光景だった。
彼女は少女にとっての絶対者であった。
無敵の存在であった。
神であった。
そして、母親であった。

紅白の巫女が投げる符が、彼女の魔力を削いでいく。
黒白の魔女が放つ魔力弾頭が、彼女の防壁を破壊していく。
青緑の悪霊が撒く魔力の雨が、彼女の翼を撃ち抜いていく。
チェック柄の妖怪が咲かせる花が、彼女の身体を蝕んでいく。
そうして、魔界は4人の侵入者によって滅びを迎えた。
そうして、魔界の神は4人の侵入者の手によって連れ去られてしまった。
少女は傷だらけで動かない身体を無理やりに奮い立たせると、最後に残った魔力を移動することだけに使い、外からの侵入者を追いかけた。
最早一度…いや、二度目も倒された少女に、残された手段は何もなかった。
それでも、目の前で攫われていく母を黙って見ていられるほど、少女は大人ではなかった。
美しかった魔界の居城は、今は見る影もなく破壊し尽されていた。エントランスでは、母に匹敵する強さを持つメイド長が、無力な姿を晒していた。
氷雪の草原はどこにもその面影はなく、温い陽気に支配されていた。
ここを管理していた姉妹はどうしたのだろうか?
鉄壁の魔界の門は外側から乱暴に打ち破られて、ひしゃげた門扉がただの鉄塊となって散乱していた。そこには門番と白い帽子を被った少女が倒れていた。
彼女らも戦い、敗れたのだろう。
魔界に住む者達は、等しく神綺の子供たちだった。
ゆえに、彼らは全員兄弟であり、姉妹であった。
それなのに、あの侵入者たちが…!
憎悪が少女を支配していく。黒い心の毒が広がっていく。
やがて彼女らは、森の中に立てられた一軒家に辿り着くと、そこに神綺を置いて、去っていった。
どういうこと?
不審に思いながらも、少女は窓から様子を伺うことにした。
激情に駆られて追いかけてきたまではよかったが、今の少女に戦う力は残っていない。重要なのは神綺を連れて魔界に帰ることだ。
そう自分に言い聞かせ、中を覗く。
すると、ベッドに寝かされた神綺に縋りつくようにして泣きじゃくる、一人の少女の姿が目に入った。その少女は年こそ離れているけれど、まるで自分の生き写しのように似た姿をしていた。
そして、その少女の髪を、愛しそうに撫でる母の姿――。
そこで、少女は理解した。
私達の神は死んだのだ。私達の母は消えたのだ。
私の、お母さんは、あの女に、盗られたのだ。

少女はフラフラと幽鬼のように窓から離れると、そのまま当てもなく外の世界を彷徨い歩いた。どこをどう歩いたのか分からない。何度も茎に躓いて転んだようであるが、痛みはもう感じなかった。
やがて薄暗い森を抜けると、一面に花が咲き誇る丘に出た。
薄闇の世界から、白色の世界へと。
月明かりに照らされたそこは、天上の楽園と見紛うばかりに美しい場所であった。
地下には存在しない自然の花々が、視界一杯に広がっていた。鈴のように可愛らしく垂れ下がる小さな花が、風に吹かれて微かに揺れる。
爽やかに吹き付ける風が、花のつける柔らかな香りを少女の鼻腔に届けていく。
少女は誘われるように花畑の中に足を踏み入れた。
そして、草花に抱かれるように、眠りに落ちた。
中天には月が優しい光を投げかけ、咲き誇る鈴蘭の花々が、少女を静かに包んでいった。


エピローグ

靈夢がアリスの家を訪ねてきたのは、もう日も傾き始めた頃であった。
夜間の明かりの魔法の準備に取り掛かろうとしていたアリスは、乱暴に叩かれる扉を苛立たしげに開けた。
「なんだ、あんたか。もう少し上品なノックを身につけて欲しいのだけれど」
「あいにく、幻想郷ではこれが普通なのよ」
いつも通りの軽口から入る。それは10年前から変わらぬやり取りであった。

10年程前、アリスは里から出て行った。そして、捨虫の魔法を身に付けるべく、魔法の森と呼ばれる魔力増幅効果のある森に居を構えた。幸い、昔にここに住んでいたらしい魔法使いの住居跡が残っていたので、そこを掃除して使うことにした。
しかし、アリスの行方はすぐに博麗の巫女に見つけられた。
当然、アリスは連れ戻されるはずであったが、すでにアリスの精神は、心的疲労と森の茸の幻覚作用で取り返しの付かない状態となっており、下手に魔法の森から連れ出すことは、かえって危険だと判断された。
何故かアリスは森の中では至極真っ当な反応を見せ、靈夢や巫女とも日常的な付き合いを続けることができていた。
だが、巫女や靈夢は気付いていた。
アリスは表面上こそ正常に見えるものの、確実に心が壊れていたことに。
それは彼女が完全自律の自動人形を作り始めた頃のことだった。
「これが完成すれば、お母さんに会えるわ」
「…? マーガトロイドさんの技に近付くってこと?」
「何言ってるのよ、靈夢。私がお母さんを作るのよ。逢えないなら、作ればいいの。そうすればいつでも逢える。お母さんとも暮らせる。そうでしょう?」
鼻歌交じりに「さも当然」と、そんなことを言うのだった。
アリスが人形作りに没頭していったのは、その頃からだった。
しかし、アリスは人形で母を作ろうとしながらも、母が戻ってくることも考えていた。
母は魔法使いだった。だから、母もあの魔法を修めていたに違いない。そう信じて。
それは捨虫の魔法。自身の時を止める魔法。
もしそうであれば、私が先に死ぬわけにはいかない。
いつまでも、いつまでも待っています。だからお母さん、私に逢いに来て下さい。
自然の営みを尊重する魔法使いだったマーガトロイドが捨虫の魔法を修める道理はなかった。しかし、そんなことを考える理性は、アリスには残っていなかった。
だから求めた。永久の時間を。いつか母に逢う、そのためだけに。

そして、いつしかアリスは捨虫の魔法も修め、名実ともに妖怪となった。

「で、こんな中途半端な時間に何の用…靈夢、あなた、何を背負ってるの?」
アリスは靈夢の背中に背負われている人影に気付き、眉をひそめた。あまりにボロボロな姿で、一瞬人だと認識できなかった。
靈夢はアリスにチラと視線だけ向けると、スタスタと奥にあるベッドまで歩き、そこに背中の人物を横たえた。
「あ、コラ、何を勝手…に……」
靈夢は手ぬぐいで優しくその人物の顔の汚れを拭っていった。そうして現れた姿に、アリスは驚愕の表情を浮かべ、カタカタと小さく全身を震わせた。
「お…」
一歩、小さく前に出る。靈夢が場所を譲るように、脇にどいた。
「かあ、さん…?」
信じられないという顔で、ベッドの横まで歩いてくると、震える手で、眠る母の頬にそっと触れた。微かな温もりが伝わってくる。浅い呼吸が指に触れる。
「お母さん!」
アリスは母を抱きしめた。それは10年前に得た温もりを、アリスに思い起こさせた。変わらない、母の体温を、柔らかな鼓動を、感じた。
「…約束、守ったわよ」
靈夢は静かにそう言うと、アリスに気付かれないように、外に出た。
「これでよかったのかな…」
ポツリと漏れ出たのは、悔恨の響きを含む言葉だった。
自分は本当に正しいことをしたのだろうか?
ただ、過去に犯した過ちを取り繕うための偽善なのではないか?
暗く沈んでいく思考を振り払うように、靈夢は飛んだ。すべての判断は、当人たちに委ねるしかないのだ。結果、靈夢がアリスに憎まれることになろうとも、仕方ないことだろう。
「みんなが幸せになれたらいいのにね」
アリスの家を遠くに眺めて、靈夢はかつての親友のために祈りを捧げた。

靈夢が出て行ったことにも気付かず、アリスは母の胸で泣いていた。
もう一度母と逢うために――ただ、それだけのためにアリスは人間であることをやめたのだ。その道もまた、平坦なものではなかった。
すべてを捨ててまで、唯一求めたその母が、いま、目の前にいる。
アリスは抱きしめる手に力をこめた。もう離れまいと、強く、強く。
すると、静かに、髪を撫でられていることに気が付いた。慌てて涙を拭い、顔を上げる。
母が目を覚ましていた。いつかと変わらぬ優しい眼差しを向けて、成長した我が子を愛しそうに、そして痛ましそうに見つめる母の姿がそこにあった。
「おかあ…さん…」
声が震える。再び涙が溢れそうになる。アリスはただ一言、それだけを口の端にのせた。
永い年月の隙間を埋めるための言葉はなかった。ただ、お互いの顔を見つめあい、視線を交わし、心を絡ませる。それで十分だった。
――そしてそれが、精一杯だった。
「…大きく、なったわね」
初めて、母が口を開いた。記憶の中と変わらぬ声。アリスは母の手のひらを自分の頬に当てた。懐かしい――そして確かに覚えている手のひらの温もり。
涙は見せまいと、アリスは小さく、「うん」とだけ応えた。
「…逢えて、よかった」
その言葉の意味を、アリスは理解していた。だからアリスはまた、「うん」とだけ応えた。それ以上口にしてしまったら、我慢できる自信はなかったから。
母はニッコリと微笑を浮かべると、全身から力を抜いた。すると、その体が大量の光の粒子となって、空へと還元されていく。それは成仏する魂に似ていた。
マーガトロイドの魂は、神綺の攻撃を身に受けた時、すでに破壊されていた。しかし、魂と肉体は完全に切り離せるものではない。肉体が滅びれば、その亡霊も成仏するように、別たれたと思っても、どこかで必ず繋がっているのである。
マーガトロイドは残された肉体に最後に刻んだアリスへの想い――その最後の欠片だけで、ここまで存在を維持していたのだ。それだけでも奇跡だった。
光は徐々に大きくなり、やがて母の姿を覆いつくした。
心配させまいと堪えていたアリスであったが、消え行く母の姿を前に自制は効かなかった。まだ温もりの残る母の手を力一杯握り締め、胸の奥の想いを伝えようとする。
――消えないで! ずっとここにいて! 私と一緒に、ずっと…!
そう叫びたかった。そのために、アリスは全てを捨ててきたのだ。思い、想い続けて、今があるのだ。
しかし、アリスは迸りそうになる激情を必死で抑えると、静かに、母に微笑んだ。
「私、お母さんの子供でよかった」
口を開くともう、ダメだった。堪えていた涙が溢れ出し、笑顔が歪む。それでもアリスは笑顔を向けた。消え行く母に贈れるものがあるとすれば、それは自分の笑顔しかないのだと――そう、信じて。
「だから――ありがとう」
本当に伝えたかったのは、ただひとこと。
自分のために己を犠牲にしてきた母に、どうしても伝えたかった言葉。
ぽたりと、アリスの頬を伝った涙がマーガトロイドの手に落ちた。その涙諸共に、母の身体は光に飲み込まれていく。
最後に聞いた娘の言葉に、そして、最後まで自分に微笑みをくれた娘の強さと優しさに、マーガトロイドは安堵と同時に、自分の罪が許されたような気がした。
神も悪魔もいないのだと思ったけれど――。
彼女は思う。自分の愛しい我が子を見つめながら。
神はここに、いたのね――。
満足そうな微笑を残し、そうしてマーガトロイドは光の中に消えた。眩いばかりの光の塊は、一瞬大きく輝くと、細かな粒子の欠片となり、静かに宙に溶けて消えていった。そこにはもう、何も残されてはいなかった。
微かに残る光の残滓が、残されたアリスを慰めるように周囲を舞った。
しばらく呆然と、涙に濡れた顔そのままに、母の居た場所を見つめていたアリスであったが、やがて服の袖で乱暴に涙を拭うと、チラチラと心配そうに舞う光の欠片に、淡く微笑みかけた。
「大丈夫。もう、大丈夫」
優しい光に囁くように、アリスは強い笑顔を上に向けた。
そこにはもう、迷いはなかった。


もう5月になろうというのに、未だ幻想郷には雪が降り積もっていた。
「まったく、誰がこんなはた迷惑なことをしてるのやら…」
紅白の巫女が白銀に染まる森を眼下に見下ろしながらぼやいていた。
するとそこへ、一条の光が奔った。慌てて回避する巫女。
「危ないわね! いきなり何よ!」
プリプリと怒る巫女の前に、優雅な動作で一人の少女が降りてきた。彼女の周囲には幾つもの人形がフワフワと漂っている。
「しばらくぶりね」
「…誰?」
「私のこと覚えてないの?」
「全然」
(あなたのオムツも替えてあげたことがあるのに)
少女は巫女の言葉に気を悪くした様子もなく、クスクスと笑った。
唐突に攻撃されたと思えば、突然人の顔を見て笑い出す少女の姿に、苛立ちの限界にきていた巫女は皮肉混じりに挑発の声を向けた。これ見よがしに御札を握る手を前にかざす。
「あなたは悩みが少なそうでいいわね」
「失礼な」
少女はニヤリと笑う。この子はどれだけ母親に近付いたのだろう。不敵さだけでなければいいが。そうでなければ、この異変の先にいる者には敵うまい。
魔力を指先に集中する。そこから伸びる不可視の糸を伝い、糸から繋がる人形たちに魔力と命令が行き渡る。
金髪碧眼の可愛らしい人形だけは、少女を守るように傍に寄ると、不似合いに大きな盾を構えた。
「少ないんじゃなくて、悩みなんて無いわ!」
七色の弾幕が、雪の舞い散る春の空に広がった。


                                               Fin.

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